前5世紀頃
- 自然について 思惟によってのみ把握される、唯一の存在するもの
- 不変・唯一の存在するもの
前4世紀
13世紀
- 存在者と本質について 神から存在を与えられたもの
- 存在を与えられたもの
17世紀
18世紀
19世紀初頭
- 大論理学 みずから解体してゆく、つかのまの統一
- 他との関係で現れるもの
19〜20世紀
20世紀前半
20世紀後半
- 科学革命の構造 時代の枠組みが変えれば、物も変わる
- 時代の枠組みが決める物の姿
21世紀
- 道具存在 関係を超えて、引きこもる物
- 関係を超えて閉じこもる物
タイムライン
Timeline
物の定義史
西洋哲学は「物」をどう捉えてきたか
私たちの目の前にある「物」とは、いったい何だろうか。この素朴な問いに、西洋の哲学者たちは二千五百年にわたって答え続けてきた。その答えの変遷をたどると、哲学史全体の流れが一本の線として見えてくる。
はじまりは古代ギリシャである。パルメニデスは、移ろい消えていく多様な物たちを「仮象」と斥け、真にあるのはただ一つの不変の「ある」だけだと説いた。プラトンはこれを受けて、物は永遠のイデアを分かちもつことで物たりうると考えたが、後年その「分かちもつ」とは何かをみずから問い直してもいる。アリストテレスは物を、形相と質料からなり、それ自体で立つ「実体」として捉えた。物が確かな手応えをもって「ある」とされた時代である。
中世のトマス・アクィナスは、その実体に神を重ねた。物が存在するのは、神がそれに存在を与えているからだ——物の根拠が神に置かれた。
近代に入り、デカルトは物を「広がりをもち、心がなくても存在できる実体」と定義した。物と心がきっぱり分けられ、物は数学的に扱える対象になった。だが、この「心の外に独立して在る物体」という像は、ほどなく揺さぶられはじめる。バークリは「在るとは知覚されることである」と説き、心の外の物質という想定そのものを退けた。ヒュームはさらに進み、物とは知覚の束が習慣でまとめられたものにすぎないとして、実体という概念自体を解体した。カントはこの懐疑を引き受け、物そのもの(物自体)は決して知りえず、私たちが知るのは認識の枠組みによって構成された「現象」だけだと論じた。物の確かさは、こうして少しずつ崩されていった。
十九世紀、ヘーゲルは物を、静止した実体としてではなく、みずからを諸性質へと解きほぐしながら次へと移りゆく思考の運動の一段階として描いた。物はもはや「在るもの」ではなく「なるもの」へと傾いていく。ベルクソンは物を、絶えず流れる持続のなかから知性が切り取った静止的な断片とみなし、ホワイトヘッドにいたって物はついに、生成し消滅する「出来事」の連なりそのものとなった。固い物体は、流れる過程のなかへと溶けていったのである。
二十世紀前半、現象学はもう一つの道を示す。フッサールは物を、意識に一面ずつ立ち現れながら綜合されていく志向的対象として精緻に分析した。ハイデガーは、物がまず眺める対象としてではなく、手にとって使う「道具」として私たちに出会われることを明らかにした。
こうして「物」をめぐる問いは、確かな実体から、知覚へ、運動へ、過程へ、そして人間との関わりそのものへと、たえず姿を変えてきた。物の定義の歴史は、そのまま、西洋哲学が世界をどう見ようとしてきたかの歴史でもある。この一覧は、その長い問いの軌跡を、一冊ずつ手にとるように歩むためのものである。
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