第一哲学についての
諸 省 察
神の存在と、精神と身体との実在的区別とを論証する

著者

ルネ・デカルト

パリ

ミシェル・ソリー書店刊

一六四一年

知の地図シリーズ / 古典書房

この本について

本HTMLは、ルネ・デカルト『第一哲学についての諸省察』(Meditationes de Prima Philosophia、ラテン語初版 パリ・1641年)のラテン語原文から日本語に翻訳したものです。底本には、パリ原版のラテン語本文と最初のフランス語訳を対訳で収めた校訂版を用いました。
底本:René Descartes, Meditationes de Prima Philosophia(パリ原版・ラテン語/フランス語対訳)、C. ギュットラー編、C. H. ベック社(ミュンヘン)、1901年。Internet Archive で全文公開

また、上記底本のラテン語原文をHTML化した原典ファイルも別途用意しています。原文参照・研究用途に、本訳と同じ古典書房から無料でダウンロードできます。

翻訳方針:原文に忠実な直訳を基本としつつ、現代の読者にとって意味のわかりやすい表現を優先しました。anima(霊魂)を「魂」、mens(精神)を「心」と訳すなど、歴史的訳語と異なる場合があります。重要な箇所には解説を付し、哲学史的文脈や関連する思想家との関係を説明しています。

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目次

1.デカルトが省察を書いた理由

デカルトが省察を書いたのは1641年、17世紀のヨーロッパです。この時代は知識の世界が大きく揺れていました。それまでの学問はアリストテレスの哲学を受け継いだスコラ哲学が支配しており、「物事はこういうものだ」という大きな体系が聖書の権威とともに社会全体を支えていました。ところが16世紀以降、コペルニクスが地動説を唱え、ガリレオが望遠鏡で天を観測し、自然科学が古い権威と激しく衝突し始めます。1616年にはガリレオが宗教裁判にかけられました。

こうした状況の中でデカルトは考えます。感覚も、権威も、これまでの習慣的な知識も、すべてに疑いの余地がある。ならば徹底的に疑い、それでも疑えないものだけを土台にして、確実な知識を一から作り直せないか。省察はその試みの記録です。

デカルト自身は読者への序文でこう述べています。「真剣に私とともに省察し、感覚から、そしてあらゆる偏見から心を引き離すことのできる人々だけに読むことを勧める」と。これは読者を選んだのではなく、この書が「一緒に考えること」を前提としているという意味です。

2.省察という形式について

「省察(Meditationes)」というタイトルには意味があります。論文でも教科書でもなく、「省察」——内省、瞑想、考え抜くこと——という形式をデカルトは選びました。本文は一人称で書かれ、「昨日の省察によって」「今日こそ」と日をまたいで思考が進みます。これは文学的な演出ではありません。疑いから確実なものを見つけ出すまでの思考の運動を、読者が追体験できるようにするための構造です。読者は「デカルトがこう考えた」と外から学ぶのではなく、「私はどうだろうか」と一緒に考えながら読むことを求められています。

3.省察全体の構造

六つの省察は、一本の論の流れでつながっています。第一省察では感覚を疑い、すべてが疑わしいという状態を作り出します。第二省察では、疑うその「私」だけは疑えないという発見に至ります(「我思う、ゆえに我あり」)。蜜蝋の分析を通じて、物体を認識するのは感覚ではなく心だということを示します。第三省察では、私の中にある「神の観念」を手がかりに、神が存在することを論証します。第四省察では、誤りがどこから来るのかを問います。意志が知性を超えて広く及ぶために誤りが生じると説明します。第五省察では物質の本質を考察し、神の存在を別の角度から再び論証します。第六省察では、物質的なものの存在を確立し、心と身体が実在的に区別されることを証明します。

4.この省察を読むときに知っておくべきこと

方法的懐疑とは何か:第一省察で行われる「すべてを疑う」という操作は「方法的懐疑」と呼ばれます。これは懐疑主義とは根本的に異なります。目的は「疑いに耐えて残るもの」を見つけることです。疑うこと自体が目的ではなく、確実な知識の再建が目的です。

悪しき霊とは何か:第一省察の終盤に「悪しき霊(genius malignus)」という存在が登場します。全知全能で悪意をもつ霊が、私の感覚にすべて偽の情報を送り込んでいるかもしれないという仮定です。これは信じるためではなく、「もしそうだとしても疑えないものがあるか」を探すための装置です。

「明確かつ判明」とは何か:省察の中で繰り返し登場するキーワードです。「明確(clara)」とは注意を向けたとき直接はっきり現れること。「判明(distincta)」とはさらに他のものとはっきり区別されること。デカルトにとって、明確かつ判明に知覚されるものは真である、というのが知識の基準になります。

最も賢明なる 卓越せる諸氏へ

パリ神学部
学部長および博士諸氏へ

ルネ・デカルト より

このように尤もな理由により、本書を皆様に差し上げます。また私の考えをご理解いただいて、皆様におかれましても本書を擁護いただける尤もな理由をお持ちと信じておりますので、ここで本書を薦めるには、私がどのような方針によったかを手短に申し述べること以上のことはありますまい。私はつねに、神について、および魂についての二つの問いを、神学よりもむしろ哲学の助けによって論証すべき主要なものと考えてまいりました。なぜなら、信仰をもつ私どもにとっては、人間の魂が身体とともに滅びないこと、および神が存在することを信仰によって信ずれば十分であるとはいえ、不信者に対しては、まずこの二つを自然的理性によって証明せねば、いかなる宗教も、また道徳的な徳さえもほとんど説得できないと思われるからです。そして現世においては悪徳への報いが徳への報いを上回ることがしばしばありますので、神を畏れることなく、また来世を期待することもなければ、正しいことを有益なことよりも優先する者は少ないでしょう。

神の存在が聖書に教えられているがゆえに信じるべきであり、また逆に聖書が神によってもたらされたがゆえに信じるべきである、ということはまったく真実ではありますが、しかしこれは不信者に対しては示せません。なぜなら彼らは循環論法であると判断するだろうから。そして私は、神学者の皆様すべてと他の神学者たちとが、神の存在は自然的理性によって証明できると主張されることを認識いたしました。また聖書からも、神の認識は被造物についての多くの認識よりも容易であり、またそれほどまでに容易であって、それを持たない者たちは責めを負うべきだと聖書は示しています。知恵の書十三章の「もし彼らが世界を推し測りうるほどの知識をもちえたなら、なぜその主をより容易に発見しなかったのか」という言葉、およびローマ書一章の「彼らは弁解の余地がない」という言葉がこれを示しています。また同所の「神について知られることは彼らの中に明らかである」という言葉によって、神について知られうることのすべてが、私たちの心それ自体以外に求められない論拠によって示しえると聖書は私たちに告げているように思われる。それゆえ私は、これをいかにして行うか、また神がいかなる道によって世の物事よりも容易かつ確実に認識されるかを探求することを、私にとって無縁のことではないと考えました。また魂については、その本性が容易には探求しえないと多くの人が判断し、さらに一部の者は、人間の理性は魂が身体とともに滅びると示唆するのであって、信仰によってのみ反対のことを保てると敢えて主張してきましたが、しかし第十ラテラノ公会議においてレオ十世のもとで第八会議がその主張を断罪し、公会議はキリスト者の哲学者たちに対して彼らの論拠を論駁し、力の限り真理を証明するよう明示的に命じましたので、私もその証明に取り組むことをためらいませんでした。

さらに、神が存在することおよび人間の心が身体から区別されることを信じようとしない不敬な者の多くが、その唯一の理由として、これら二つのことはいまだかつて誰も論証できなかったと言うことを、私は知っています。私はまったく彼らに同意しませんが、それどころか、これらの問いについて偉大な人物たちが提示してきた論拠のほとんどすべては、十分に理解すれば論証の力をもつと私は考えており、また以前に他の誰かが発見していないような論拠をほとんど提示できるとは思いません。しかし哲学においては、すべての中で最善のものを一度徹底的に探求し、それほど正確かつ明瞭に提示して、後世のすべての人がそれを論証と認めるほどにする以上に有益なことはなしえないと私は考えます。そして最後に、科学におけるいかなる難問をも解決するための方法を私が培ってきたことを知っている一部の人々は、他の問題においてそれを用いて私が幸運であるのを見て、これを私に強く求めてきました。この方法は新しいものではありません。真理より古いものは何もないからです。それゆえ私はこの件においていくらか試みることが私の義務であると考えました。私がなしえたことはすべて、この論考に盛り込みました。もっとも、同じ事柄を証明するために提示しうる論拠を集めようと努めたわけではありません。確実な論拠がある場合にのみ、そのような試みは意味をもちます。私はただ最初の、そして最も主要な論拠のみを取り上げ、今やこれを最も確実で明証的な論証として提示することをあえてします。さらに、人間の知性にはこの論証より優れたものを見出せる道はないとも申し添えます。なぜならば、事の必然性と、この論全体が帰すべき神の栄光とが、私の習慣に比してやや自由に自分のことを語ることを私に求めるからです。しかしながら、これらをいかに確実かつ明証的と思えども、それゆえにすべての人の理解に適うとは自ら信じません。幾何学においては、アルキメデス、アポロニウス、パップス、その他の人々が著したものが多くあり、それらはたしかにすべての人が明証的かつ確実なものと認めています。なぜなら、それぞれを個別に見れば理解すること極めて容易なものしか含まず、前後のつながりもすべて正確に対応しているからです。しかし、それらはやや長く、非常に注意深い読者を必要とするため、ごく少数の人しか理解しません。同様に、私がここで用いる論拠も確実性と明証性において幾何学的論証に等しく、あるいはそれを上回ると思えども、多くの人には十分に把握できないのではないかと危惧します。それは一つには、これらもやや長く互いに依存し合っているからであり、特には、偏見から全く自由な心を、また感覚の交わりから容易に身を引き離せる心を必要とするからです。

確かに、世に形而上学的研究に適した人は幾何学的研究に適した人よりも多くはありません。さらに両者には違いもあります。幾何学においては、確実な論証のないものは通常書かれないということがすべての人に納得されているため、未熟者が誤りを犯すとすれば、真なるものを退けるよりも、虚偽を認めること、すなわちそれを理解しているように見せたいがために承認してしまうことの方が多いのです。哲学においては逆に、どんな問題についても両様に論じられると人々が信じているため、真理を探究する者は少なく、はるかに多くの者が、最良のものを何でも攻撃する大胆さによって才知の名声を博そうとします。それゆえ私の論拠がどのようなものであれ、哲学に属するものである以上、皆様の擁護なくしてはその力によって大きな成果をあげられるとは期待しません。しかし皆様の学部についてはすべての人の心にかくも高い評判が根付いており、ソルボンヌの名はかくも大きな権威を有し、宗教的事柄において公会議後いかなる団体も皆様の学部ほど信任されたことはないのみならず、人間哲学においてもこれほどの洞察力と堅固さ、また判断を下すためのこれほどの公正さと知恵はどこにも見出されないと誰もが認めています。それゆえ、もし皆様がこの著作の監督を引き受けてくださるならば、次のことを願います。まず皆様にご訂正いただくことを願います。私は自分の人間性のみならず、特に無知を認識しており、この著作に誤りが全くないとは申しません。次に、不十分なもの、完成されていないもの、より多くの説明を要するものが、皆様自身によって、あるいは少なくとも、皆様にご指摘いただいた後に私が補い、完成し、明確にすることを願います。そして最後に、この著作に含まれる論拠、すなわち神の存在と心が身体とは異なることを証明する論拠が、私がそれらをそこまで導きうると確信する明晰さまで導かれた後に、すなわち最も精確な論証として皆様が認めてくださるものとなった後に、そのことを宣言し公に証言してくださることを願います。もしそのようなことがなされるならば、これらの問題についてかつてあったすべての誤りが、たちまち人々の心から消え去るだろうと疑いません。なぜなら真理それ自体が、他の才知あり博学な者たちを皆様の判断に従わせるでしょうし、皆様の権威が、無神論者たちから反論する気概を奪い去るでしょう。彼らは才知豊かというより学識かじり、あるいは博学かじりが常です。そして恐らくは、才知ある者すべてに論証として認められると知っている論拠を、理解できないように見られまいとして、彼ら自身が擁護するようになるでしょう。さらに他のすべての人々はこれほど多くの証言を容易に信じるでしょうし、神の存在あるいは人間の魂が身体から真に区別されることを疑う者は世にいなくなるでしょう。このことがいかに大きな益をもたらすかは、皆様ご自身がその卓越した知恵によって、誰よりも正しく評価されることと存じます。また皆様は常にカトリック教会の最大の支柱でいらっしゃいますので、神と宗教の事柄をここでこれ以上長々と皆様にお勧めすることは適切でないでしょう。

読者への序文

神と人間の心についての問いには、1637年にフランス語で刊行した『方法序説』においてすでに簡単に触れました。もっとも、そこで精確に論ずることが目的ではなく、ただ事の一端を試み、読者の判断からその後どのように論ずべきかを学ぶためでした。この問いは私にとってきわめて重大に思われたため、一度にとどまらず取り組む必要があると判断しました。またこれらを解明するための道は、あまりにも人の踏み慣れぬ道、日常の用法からあまりにも遠い道であって、フランス語で誰もが読める文章にそれを詳しく記すことは有益でないと考えました。知力の弱い人たちがその道を自分も進めると思い込んでしまうかもしれないからです。ところで、私は『方法序説』の中で、私の著作に非難に値する点を見つけた方はどうかご指摘くださいとすべての読者に求めておりました。これらの問いについて私が触れた箇所に関して注目に値する異論は二つ以外に何も寄せられませんでした。そこで、これらの問いについてより精確な説明に入る前に、その二つに簡潔にお答えします。第一は、人間の心が内省してみても自分が思考するものであること以外に知覚しないことから、その本性すなわち本質が、ただ思考するものであることにのみあるということには帰結しない、すなわち「ただ」という語が、魂の本性に属するとも言いうる他のすべてのものを排除するわけではない、というものです。この異論に対しては、私もそこで事柄そのものの真理という観点においてそれらを排除しようとしていたわけではなく(そのことは『方法序説』では論じていませんでした)、ただ私の知覚という観点においてのみそうしていたのだとお答えします。つまり、私が思考するものであること、すなわち思考する能力を自らの内にもつものであること以外には、私の本質に属する知識として私には何も明確には認識できないということが言いたかったのです。後の省察で、私の本質に属するとして他に何も認識しないということから、実際にも他に何も本質に属さないことが帰結することを示します。第二は、私より完全なものの観念を私が自分の中にもつことから、その観念それ自体が私より完全であることは帰結せず、ましてその観念によって表される事柄が存在することは帰結しない、というものです。これに対しては、観念という語に多義性があるとお答えします。観念は、知性の働きという意味では質料的に取ることができ、その意味では私より完全とは言えません。しかし、その働きによって表される事柄という意味では客観的に取ることができ、その事柄は知性の外に存在するとは前提されなくても、その本質の観点から私より完全でありえます。私の内に私より完全なものの観念があるというただそれだけから、その事柄が実際に存在することが帰結する仕方については、後に詳しく述べます。さらに私は、かなり長い二つの文書を見ましたが、それらは私のこれらの問いについての論拠そのものよりも、無神論者の常套句から借りた論拠によって私の結論を攻撃するものでした。

しかしそのような論拠は私の論拠を理解する人には何の力ももちえませんし、多くの人の判断はそれほど倒錯し薄弱であって、いかに誤っていようとも最初に受け入れた意見の方が、その後に聞いた真実で堅固な論駁よりも容易に人々を動かすものですから、先にそれらを紹介しなければならなくなることを避けるため、ここで答えることはしません。ただ一般的に申し上げると、神の存在を攻撃するために無神論者が普通に振りかざす論拠はすべて、人間的な感情を神に当てはめるか、あるいは、神が何をなしうるか、なすべきかを私たちの心が決定し把握できると傲慢にも自ら主張するか、そのいずれかに常に基づいています。それゆえ、私たちの心は有限なものとして、神は把握しえない無限なものとして考えるよう心がけるだけで、それらは何の困難も私たちにもたらさなくなるでしょう。さて、人々の判断をひとたびでも経験した今、ここで再び神と人間の心についての同じ問いを、そして第一哲学全体の諸原理を論ずることにします。しかし、大衆の喝采も読者の多さも期待せずに論ずることにします。それどころか、真剣に私とともに省察し、感覚から、そしてあらゆる偏見から心を引き離すことのできる、またそうしようとする人々だけに読むことを勧めます。そのような人はごく少ないと十分に承知しています。一方、私の論拠の連なりと脈絡を把握しようとせず、多くの人がするように個々の文言についてのみ揚げ足を取ろうとする人たちは、この書を読んでも大した益を得ないでしょう。いくつかの点であら捜しをする機会を見つけたとしても、差し迫った、あるいは答えるに値する異論を容易には提示できないでしょう。他の人々に対しても、あらゆる点で最初から満足させることは約束しませんし、誰かに難しいと思われることをすべて予見できると自負するほど傲慢でもありませんが、まず省察においては、私が確実かつ明証的な真理の認識に達したと思う思考そのものを述べ、私が説得されたのと同じ論拠で他の人々をも説得できるかどうかを試みます。その後に、この省察を印刷する前に検討を求めて送った、才知と学識に優れた数名の人々からの異論にお答えします。彼らからはきわめて多くの様々な異論が出されましたので、他の人々の念頭にも何か重要な点で彼らがすでに触れていないものが浮かぶことはあるまいと期待します。それゆえ、これらの異論とその解答をすべてお読みになるまでは省察についての判断を下されないよう、読者に繰り返しお願いします。

以下六つの省察の概要

第一省察においては、あらゆる事柄について、特に物質的な事柄について、以前にもっていた学問の基礎以外の基礎をもたない限り疑いうる理由を示す。この大きな疑いの有益さは一見しただけでは明らかでないかもしれないが、その最大の有益さは、あらゆる先入観から私たちを解放し、感覚から心を引き離すための最も容易な道を開き、最終的に後に真であると分かることについてはもはや疑いえなくなるようにすることにある。

第二省察においては、心は自らの固有の自由を用いて、存在することについてわずかでも疑いうるとしても、そうしている間にも自分自身は存在するということに気づく。

これはまた非常に有益だ。こうして心は自分に属すること、すなわち知的本性に属することと、身体に属することとを容易に区別できるからだ。しかし魂の不死についての論拠をここで期待する人もいるかもしれないが、ここではまず後で求められる命題が依存するすべてのことを前提として示さない限り、その命題について何も結論できない。魂の不死を認識するための最初かつ主要な前提は、できる限り明確な魂の概念を形成し、それを身体の概念から完全に区別することだ。これはここで行われる。さらに、明確かつ判明に理解するものはすべて、その理解の仕方どおりに真であることを知る必要がある。これは第四省察まで証明できない。また身体的本性の判明な概念をもつ必要がある。これは第二省察の一部で、また第五・第六省察でも形成される。これらから、異なる実体として明確かつ判明に把握されるものは、心と身体がそのように把握されるように、実際に実在的に区別される実体であると結論しなければならない。これは第六省察で結論される。

身体の腐敗から心の消滅は帰結しないことを示し、それにより死すべき人たちに来世への希望を与えるためには、これで十分だ。しかし心の不死を結論できる前提は自然学全体の説明に依存する。まず、存在するために神によって創られなければならないすべての実体はその本性上消滅しない、すなわち神が協働を拒まない限り存在をやめることができないと知る必要がある。次に、身体は一般的に取られると実体であり、したがって消滅しないが、人間の身体は他の身体と異なる限り、四肢の特定の配置と同種の偶有性から成るにすぎないことに注意する必要がある。しかし人間の心はいかなる偶有性からも成らず、純粋な実体だ。心のすべての偶有性が変わっても、考える事物・意志する事物・感じる事物が異なっても、心そのものは別のものにはならない。人間の身体はその部分の形が変わるだけで別のものになる。これから、身体は容易に消滅するが、心はその本性上不死であることが帰結する。

第三省察では、神の存在を証明するための主要な論拠を、私には十分と思われる仕方で詳しく説明した。しかし読者の心をできる限り感覚から引き離すために、物体的事物からの比喩はそこでは一切用いなかった。それゆえ多くの不明瞭さが残ったかもしれないが、それらは後の異論への応答の中で解消されると期待する。たとえば、私たちの中にある最高に完全な存在者の観念がどれほどの客観的実在性をもち、それゆえ最高に完全な原因から来ていなければならないかということについても、後の異論への応答の中で解消されると期待する。

この点はきわめて完全な機械の観念が職人の心の中にある場合と比較して説明される。その観念の技術的内容は何らかの原因をもたなければならない、すなわちその職人の知識か、または彼がそれを受け取った別の誰かの知識だ。同様に、私たちの中にある神の観念は神自身を原因としなければならない。

第四省察では、明確かつ判明に知覚するものはすべて真であることを証明する。同時に虚偽の根拠が何であるかを説明する。これらは先に述べたことを確固たるものにし、残りを理解するために必ず知らなければならない。しかしここでは善悪の追求において犯される罪や誤りではなく、真偽の判断において生じる誤りのみを扱っていることに注意する。また信仰や生き方に属することではなく、自然の光の力のみで認識される思弁的真理のみを扱う。

第五省察では、物質的本性を一般的に説明することに加え、神の存在を新たな論証によって証明する。しかしここでもいくつかの困難が生じるかもしれないが、後の異論への応答の中で解決される。最後に、幾何学的証明の確実性が神の認識に依存することがどのように真であるかを示す。

第六省察では、知性を想像力から区別する。両者を区別する徴表を描写する。心が身体から実在的に区別されることを証明する。それにもかかわらず心が身体と極めて密接に結合しており、それと一つのものを形成することを示す。感覚から生じる誤りをすべて列挙する。それらを避けうる方法を説明する。最後に物質的事物の存在が結論できる論拠をすべて

示す。ただし、それらが証明することを証明するのに非常に有用だと思ったからではない。すなわち実際に何らかの世界が存在し、人間が身体をもつなど、健全な精神の人がこれまで真剣に疑ったことのないことを証明するためではない。しかしそれらを考察することで、心と神の認識に至る論拠ほど確固として明証でないことが分かる。それゆえこれらが人間の知性によって知られうる中で最も確実で明証なものだ。

この一事の証明が、この省察録において私が目標として掲げたことだ。そのため、省察の中で折に触れて論じられる様々な問題をここで列挙することはしない。

第三省察では、神の存在を証明するための主要な論拠を、私には十分と思われる仕方で詳しく説明した。しかし読者の心をできる限り感覚から引き離すために、物体的事物からの比喩はそこでは一切用いなかった。それゆえ多くの不明瞭さが残ったかもしれないが、それらは後の異論への応答の中で解消されると期待する。私たちの中にある最高に完全な存在者の観念がどれほどの客観的実在性をもち、それゆえ最高に完全な原因から来ていなければならないかについてもそうだ。

第一省察 疑いうるものについて

私はずいぶん前に、幼い頃いかに多くの偽りを真として受け入れてきたか、またその後にそれらの上に積み上げてきたものがことごとくどれほど疑わしいかに気づいた。そして、もし科学においていつか何か確固として永続するものを打ち立てることを望むなら、一生に一度はすべてを根底から覆し、最初の土台からやり直さなければならないと悟った。しかしそれは膨大な仕事に思われ、これ以上に学問を習得するのに適した年齢はもう来ないだろうと思えるほどに成熟した年齢になるのを待ち続けた。そのため私はあまりに長く躊躇し続けてきたので、今後は行動のために残された時間のことを思えば責められても仕方がない。だから今日、好機到来とばかりに心をあらゆる憂慮から解き放ち、安らかな閑暇を確保し、ひとり退いて、ついに私の意見全体を真剣にかつ自由に根こそぎ覆すことにしよう。

デカルトがここで始めようとしているのは、「正しい知識を一から作り直す」という作業です。幼い頃から積み上げてきた知識の土台が、よく考えると怪しいものだったと気づいた。だから土台ごと全部いったん捨てて、本当に確かなものだけを選び直そうとしています。これを哲学では「方法的懐疑」と呼びます。「疑うこと」が目的ではなく、疑いに耐えて残るものを見つけることが目的です。

そのためにすべてが偽であることを示す必要はない。おそらくそれは決してできないからだ。しかし、まったく確実で疑う余地のないものからの同意を差し控えるのも、明らかに偽のものからの同意を差し控えるのも同様に慎重にすべきだと理性がすでに説いているから、個々の意見を疑う何らかの理由が見つかりさえすれば、すべてを退けるのに十分である。また一つひとつを吟味する必要もない、それでは際限のない仕事になる。基礎を掘り崩せば、その上に建てたものはすべて自ずと崩れ落ちるから、かつて信じていたもの全体が依拠していた原理そのものに直ちに立ち向かうことにしよう。すなわち、これまで最も真として受け入れてきたものはすべて感覚から、あるいは感覚を通じて得てきた。ところが感覚はときに私たちを欺くことに気づいた。いちど私たちを欺いたものを完全には信頼しないのが思慮というものだ。しかし、感覚がごく小さなものや遠いものについてときどき私たちを欺くとしても、感覚から汲み取るものであれ疑いようのない事柄が他に多くある。たとえば、私が今ここにいること、炉辺に座っていること、冬用の外套を着ていること、この紙を手で触れていること、などである。

一つひとつの意見を調べていたら一生かかります。デカルトの戦略は「土台を崩せば上のものはすべて崩れる」という発想です。建物の基礎に欠陥があれば建物全体が危ういのと同じです。だから土台、すなわち知識の源である「感覚」に絞って攻撃します。感覚がすべて信頼できないとは言いにくい、とデカルト自身が認めています。遠くの山の大きさを見誤ることはあっても、今手で触れているこの紙の感触まで疑うのは無理があるように思えます。しかし次の段落でその常識を崩しにかかります。

ではこれらの手そのものが、またこの私の身体全体が存在するということを、私がある種の狂人たちと自分を比べないかぎり、どのような理由で否定できるだろうか。黒胆汁の毒気が彼らの脳を冒して、自分は貧乏なのに王だと絶えず言い張ったり、裸なのに紫衣をまとっていると言ったり、頭が土焼きだとか、自分はまるごとカボチャだとか、ガラスでできていると言ったりする。しかし彼らは狂人であり、私は夜眠って眠りの中で同じ事柄をすべて経験し、ときには目覚めているあの人々よりも信じがたいことさえ経験するのに、まるで私が夢を見ない人間であるかのように振る舞って、彼らの例を自分に当てはめることを拒むとは、なんとも結構なことだ。実際には服を脱いで布団の中に横たわっているのに、夜の安息が、私がここにいること、衣をまとっていること、炉辺に座っていることという、あの見慣れた事柄を私に思い込ませることが、どれほど頻繁にあることか。しかし今は確かに目を開けてこの紙を見ており、動かしているこの頭は眠ってはいない、意識的に意図的にこの手を伸ばして感じている。眠っている者には、これほど判明なことは起こらないだろう。だが私は、似たような思考によって夢の中でも欺かれたことが、かつてあったではないか。こうしたことをじっくり考えると、覚醒と睡眠を確かなしるしによって決して区別できないということがありありと見えてきて、呆然としてしまう。そしてほとんどこの呆然たる状態そのものが夢を見ているという思いを私に確かめさせる。

「夢の論証」と呼ばれる有名な議論です。今自分が経験していることは夢ではないと、どうやって証明できるのか。デカルトは「夢の中でも目覚めているときと同じくらい鮮明に経験する」と言います。夢と現実を確実に区別できるしるしがないなら、今の経験が夢である可能性を完全には排除できない。これによって、感覚に由来するすべての知識に疑いがかかります。

では、夢を見ていると仮定しよう。目を開けること、頭を動かすこと、手を伸ばすこと、そしてひょっとしてそのような手をもつこと、さらにそのような身体全体をもつことが実際には真でないとしよう。それでも夢の中で見えるものが真の事物の類似物としてしか形成できなかったある種の描かれた像のようなものであることは確かに認めざるをえない。したがって少なくとも目、頭、手、身体全体という一般的なものは、想像上のものではなく、真に存在するものである。なぜなら画家たち自身も、セイレーンやサテュロスをこの上なく風変わりな姿に描こうとするときでさえ、それらにまったく新しい本性を与えることができず、ただ様々な動物の肢体を混ぜ合わせるだけだからだ。あるいは万一これまでまったく見たことがないほど斬新なものを考え出し、それゆえ完全に虚構でかつ偽であるとしても、少なくともそれを構成する色は真でなければならない。同様に、目、頭、手などの一般的なものが想像上のものでありうるとしても、少なくとも他のより単純でより普遍的な事柄が真であることは必ず認めなければならない。しかし少なくとも、それらの像を形作る材料となる真の色は、存在しなければならない。物体的本性一般とその広がり、さらに広がりをもつ事物の形、またそれらの量すなわち大きさと数、そしてそれらが存在する場所と持続する時間などが、この類に属するものと見える。

それゆえおそらくこれらのことから、自然学、天文学、医学、そして複合的な事物の考察に依拠する他の諸学問はすべて疑わしいと結論してもあながち誤りではない。しかし算術、幾何学、その他これに類する、ごく単純でごく一般的な事柄のみを扱い、それらが自然界に存在するかどうかをほとんど気にかけない学問は、何か確実で疑いえないものを含んでいる。なぜなら、眠っていようと目覚めていようと、二と三を合わせれば五であり、正方形の辺は四より多くはなく、これほど明証な真理が偽であるとの疑いにかかることはありえないように思えるからだ。しかしながら、神についての古い考えが私の心に植え付けられており、神はすべてのことができ、私は現在のような自分として神によって創られたということだ。だが、神が地も天も延長するものも形も大きさも場所もないようにしておきながら、それでもこれらすべてが今私に見えるように存在するように思わせていないとどうして分かるのか。それどころか、他の人々が完全に知っていると自負することについて誤ることがあると私が判断するように、二と三を合わせるとき、または正方形の辺を数えるとき、あるいは他の何か容易に想像できることについて、私が誤ることもあるのではないか。しかし神は最善であると言われているから、そのように私を欺くことは望まなかったかもしれない。しかしもし常に欺かれるような私を創ることが神の善性に反するなら、ときどき欺かれることを許すのも同じく神の善性に反するように見えるだろう。しかし後者は認めざるをえない。

夢であっても疑えないものを探したデカルトは、算術・幾何学に安全地帯を見出したかに見えました。しかしここで最大の問いを持ち出します。全知全能の神が、二たす三は五でないのに五に見えるよう私を作っていたとしたら? これを「神による欺き」の仮定といいます。信仰上の神ではなく、論理的な可能性として「そういうことも神ならできるのではないか」という問いです。

おそらく神の存在を否定して他のあらゆる事物が不確実であることを認めることを好む人もいるだろうが、そういう人たちとは争わないでおこう。神についてのこれらすべてが虚構であるとして認めよう。ではそういう人たちの仮定によれば、私が現在のようなものになったのは運命によるのか、偶然によるのか、出来事の連続によるのか、それとも何か別の仕方によるのか。いずれにせよ、誤り犯すことは一種の不完全さであるように見えるから、私の由来を担う原因の力が小さいほど、私がつねに誤るほど不完全であることがより蓋然的となる。これらの論拠に対して私は何も答えることができない。かつて真と思っていたものはすべて疑いを差し挟む余地があることを、ついに認めざるをえない。それも軽率さや浮薄さからではなく、強固で熟慮された理由からだ。それゆえ、何か確実なものを見つけたければ、明らかに偽のものに対して同意を差し控えるのと劣らず正確に、これらに対しても同意を差し控えなければならない。しかしこれに気づくだけでは十分ではない。意志を固めて用心しなければならない。というのも習慣的な意見がたえず戻ってきて、長年の慣れと親しみの権利によって私に縛り付けられた私の確信を占領し、私が望まなくてもほとんど私を支配してしまうからだ。以前真と思っていた事柄を、ある意味では疑わしいが今示したとおりの根拠からそうなのであり、それでも非常に蓋然的で否定するよりも認める方がはるかに理性にかなっているものとして扱っている間は、それらへの同意と信頼をやめることは決してないだろう。

神を信じない立場でも同じことになります。むしろ神がいないなら、私がこれほど間違いやすい存在として生まれた可能性が高くなる。神であれ偶然であれ、「私はつねに誤るかもしれない存在」という結論は免れません。こうしてすべての知識に疑いがかかりました。しかしデカルトはここで「気づくだけでは不十分」と言います。習慣的な意見が引き戻してしまうからです。だから積極的に意志を逆転させる必要があります。

それゆえ私の考えでは、偏見の重みが両側でちょうど均等になって、もはや誤った習慣が私の判断を事物の正しい知覚から引き離さなくなるまで、意志を真っ向から逆転させて自ら自分を欺き、それらをしばらくの間まったく偽で想像上のものと仮定するのは悪いことではないだろう。この仮定から当分の間は危険も誤りも生じないこと、そして今は行動すべきことではなく認識することだけに取り組んでいるから不信が行き過ぎになることもないことを、私は知っているからだ。それゆえ私は、最高善の源である神の代わりに、同じく最高に力強くて狡猾な悪しき霊(genius malignus)があらゆる手を尽くして私を欺こうとしてきたと仮定しよう。天、空気、大地、色、形、音、その他すべての外的なものは、それが私の信じやすさを罠にかけるために仕掛けた夢の幻影にすぎないと思おう。私自身を手をもたず、目をもたず、肉をもたず、血をもたず、いかなる感覚ももたないが、これらすべてをもっていると偽って思い込んでいるものと考えよう。この省察に頑固に留まり続けることにしよう。そしてたとえ何か真なることを認識することが私の力の及ばないことだとしても、少なくとも、偽のものに同意しないということは私の力の及ぶことであり、あの欺く者が、いかに力強くとも、いかに狡猾であろうとも、私に何も押しつけることができないよう、心を固く守ることにしよう。

「悪しき霊(ゲニウス・マリグヌス)」はデカルトの最も有名な概念の一つです。全知全能の神が欺こうとしているという仮定は信仰上の問題があるため、デカルトはそれを「悪しき霊」という存在に置き換えます。この霊は私の感覚に偽の情報を送り込み続けている、という仮定です。これは信じるためではなく、「もしそうだとしても疑えないものがあるか」を探すための装置です。習慣的な思い込みを振り払うために、意図的に極端な仮定を置くわけです。

しかしこの試みは骨の折れることで、ある種の怠惰が私を日常の生活の習慣へと引き戻す。夢の中で想像上の自由を楽しんでいた囚人が、眠っているのではないかと疑い始めるとき、目覚めることを恐れ、甘い幻影に静かにまどろんでいるように、私は自ら進んで古い意見へと滑り戻り、穏やかな安息の後に続く骨の折れる覚醒を、何らかの光の中ではなく、今や揺り動かされた難問の解きほぐせない闇の中で過ごすことになりはしないかと、目覚めることを恐れる。

第一省察はここで終わります。答えが出ずに終わることに注意してください。デカルトはわざとそうしています。疑いの中に留まることそのものが、次の省察で確実なものを見つけるための準備だからです。囚人が目覚めることを恐れて夢にしがみつく比喩は、私たちが慣れ親しんだ「常識」への執着を描いています。

― 試し読みはここまでです ―

第一哲学についての諸省察

発行責任者(翻訳):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-4-6)

参照原典:René Descartes, Meditationes de Prima Philosophia(C. ギュットラー編、C. H. ベック社、ミュンヘン、1901年)

初版発行日:2026年06月13日

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