神と人間の心についての問いは、私にとってきわめて重大なものであった。真剣に私とともに省察し、感覚から、そしてあらゆる偏見から心を引き離すことのできる人々だけに読むことを勧める。そのような人はごく少ないと十分に承知している。論拠の連なりと脈絡を把握しようとせず、個々の文言についてのみ揚げ足を取ろうとする人たちは、この書を読んでも大した益を得ないだろう。
第一省察においては、あらゆる事柄について疑いうる理由を示す。この疑いの意義は、あらゆる偏見から解放し、感覚から心を引き離す道を開くことにある。第二省察においては、心は存在することについて疑いうるとしても、そうしている間にも自分自身は存在するということに気づく。第三省察では、神の存在を証明するための主要な論拠を詳しく説明する。第四省察では、明確かつ判明に知覚するものはすべて真であることを証明し、虚偽の根拠を説明する。第五省察では、物質的本性を一般的に説明し、神の存在を新たな論証によって証明する。第六省察では、知性を想像力から区別し、心が身体から実在的に区別されることを証明する。それにもかかわらず心が身体と極めて密接に結合していることを示す。
ずいぶん前から気づいていたことがある。幼い頃、いかに多くの偽りを真として受け入れてきたか。またその後にそれらの上に積み上げてきたものがことごとくどれほど疑わしいかを。もし学問においていつか何か確固として永続するものを打ち立てることを望むなら、一生に一度はすべてを根底から覆し、最初の土台からやり直さなければならない。しかしそれは膨大な仕事に思われ、十分に成熟した年齢になるのを待ち続けてきた。今日こそ、心をあらゆる憂慮から解き放ち、ひとり退いて、ついに私の意見全体を真剣にかつ自由に根こそぎ覆すことにしよう。
そのためにすべてが偽であることを示す必要はない。まったく確実で疑う余地のないものからの同意を差し控えるのも、明らかに偽のものからの同意を差し控えるのも同様に慎重にすべきだと理性がすでに説いている。個々の意見を疑う何らかの理由が見つかりさえすれば、すべてを退けるのに十分である。また一つひとつを吟味する必要もない。基礎を掘り崩せば、その上に建てたものはすべて自ずと崩れ落ちる。かつて信じていたもの全体が依拠していた原理そのものに直ちに立ち向かうことにしよう。
これまで最も真として受け入れてきたものはすべて感覚から、あるいは感覚を通じて得てきた。ところが感覚はときに私たちを欺くことに気づいた。一度私たちを欺いたものを完全には信頼しないのが思慮というものだ。しかし、感覚がごく小さなものや遠いものについてときどき私たちを欺くとしても、感覚から汲み取るものには疑いようのない事柄も多くある。たとえば、私が今ここにいること、炉辺に座っていること、冬用の外套を着ていること、この紙を手で触れていること、などである。
ではこれらの手そのものが、またこの私の身体全体が存在するということを、ある種の狂人たちと自分を比べないかぎり、どのような理由で否定できるだろうか。彼らは、黒胆汁の毒気が脳を冒して、自分は貧乏なのに王だと絶えず言い張ったり、頭が土焼きだとか、自分はまるごとカボチャだとかガラスでできていると言ったりする人たちだ。しかし彼らは狂人であり、彼らの例を自分に当てはめるなら私も同様に狂人に見えるだろう。しかしよく考えてみれば、私が夜眠って眠りの中で同じ事柄をすべて経験することも頻繁にある。夜の安息が、私がここにいること、衣をまとっていること、炉辺に座っていることを、どれほど頻繁に私に思い込ませることか、実際には服を脱いで布団の中に横たわっているというのに。こうしたことをじっくり考えると、覚醒と睡眠を確かなしるしによって決して区別できないということがありありと見えてきて、呆然としてしまう。
では、夢を見ていると仮定しよう。目を開けること、頭を動かすこと、手を伸ばすことが実際には真でないとしよう。それでも夢の中で見えるものは真の事物の類似物としてしか形成できないある種の像のようなものであることは認めざるをえない。したがって少なくとも、目、頭、手、身体全体という一般的なものは、想像上のものではなく、真に存在するものである。画家たち自身も、セイレーンやサテュロスを描こうとするときでさえ、それらにまったく新しい本性を与えることができず、ただ様々な動物の肢体を混ぜ合わせるだけだ。目、頭、手などの一般的なものが想像上のものでありうるとしても、少なくとも他のより単純でより普遍的な事柄が真であることは必ず認めなければならない。物体的本性一般とその広がり、広がりをもつ事物の形、それらの量すなわち大きさと数、そしてそれらが存在する場所と持続する時間などが、この類に属するものと見える。
それゆえ自然学、天文学、医学などは疑わしいとしても、算術、幾何学、その他ごく単純でごく一般的な事柄のみを扱う学問は何か確実で疑いえないものを含んでいる。眠っていようと目覚めていようと、二と三を合わせれば五であり、正方形の辺は四より多くはなく、これほど明証な真理が偽であるとの疑いにかかることはありえないように思えるものだ。しかしながら、神はすべてのことができ、私は現在のような自分として神によって創られたという考えが私の心に植え付けられている。神が地も天もないようにしておきながら、それでもこれらすべてが今私に見えるように思わせていないとどうして分かるのか。それどころか、二と三を合わせるとき、または正方形の辺を数えるとき、あるいは他の何か容易に想像できることについて、私が誤ることもあるのではないか。
おそらく神の存在を否定することを好む人もいるだろう。しかし神についてのこれらすべてが虚構だとしても、では私が現在のようなものになったのは運命によるのか、偶然によるのか、出来事の連続によるのか。いずれにせよ、誤り犯すことは一種の不完全さであるように見えるから、私の由来を担う原因の力が小さいほど、私がつねに誤るほど不完全であることがより蓋然的となる。かつて真と思っていたものの中には、すべてに疑いを差し控える余地があることをついに認めざるをえない。それも軽率さからではなく、強固で熟慮された理由からだ。それゆえ、何か確実なものを見つけたければ、これらに対しても同意を差し控えなければならない。しかしこれに気づくだけでは十分ではない。習慣的な意見がたえず戻ってきて、長年の慣れと親しみの権利によって私の確信を占領するからだ。
それゆえ私の考えでは、意志を真っ向から逆転させて自ら自分を欺き、それらをしばらくの間まったく偽で想像上のものと仮定するのは悪いことではないだろう。偏見の重みが両側でちょうど均等になるまで。そこで私は、最高善の源である神の代わりに、同じく最高に力強くて狡猾な悪しき霊(genius malignus)があらゆる手を尽くして私を欺こうとしてきたと仮定しよう。天、空気、大地、色、形、音、その他すべての外的なものは、それが私の信じやすさを罠にかけるために仕掛けた夢の幻影にすぎないと思おう。私自身を手をもたず、目をもたず、肉をもたず、血をもたず、いかなる感覚ももたないが、これらすべてをもっていると偽って思い込んでいるものと考えよう。たとえ何か真なることを認識することが私の力の及ばないことだとしても、少なくとも、偽のものに同意しないということは私の力の及ぶことであり、あの欺く者が、いかに力強くとも、いかに狡猾であろうとも、私に何も押しつけることができないよう、心を固く守ることにしよう。
しかしこの試みは骨の折れることで、ある種の怠惰が私を日常の生活の習慣へと引き戻す。夢の中で想像上の自由を楽しんでいた囚人が、目覚めることを恐れ、甘い幻影に静かにまどろんでいるように、私は自ら進んで古い意見へと滑り戻りそうになる。安らかな安息に続く骨の折れる覚醒が、何らかの光の中ではなく、今や揺り動かされた難問の錯綜した闇の中で送らなければならないことになりはしないかと。
第二省察 人間の心の本性について――心は身体よりよく知られること
昨日の省察によって私はこれほど大きな疑いの中に陥ってしまったので、もはやそれらを忘れることができないが、それらをどのように解決すべきかも見えない。突然深い渦の中に落ちたように動揺して、底に足をつけることも水面に泳ぎ出ることもできないでいる。それでも努力して、昨日踏み入った同じ道を再び試みよう。わずかでも疑いを認めるものはすべて、まったく偽であることが分かったかのように取り除き、何か確実なものに、あるいはそれもなければ少なくとも確実なことが何もないということだけでも確実なこととして認識するまで進み続けよう。アルキメデスが地球全体をその場所から動かすために求めたのは、固定した不動の一点だけであった。私も何か確実で揺るぎないものを一つでも見つけることができれば、大きなことを期待できる。
そこで私は、見えるものはすべて偽であると仮定しよう。記憶が思い描くものはいずれもかつて存在しなかったと信じよう。私にはいかなる感覚もまったくない。身体、形、広がり、運動、場所はすべて幻想だ。では何が真であるのか。おそらく、確実なことは何もないというこの一事だけ。しかし、今列挙したものすべてとは別の、わずかでも疑う余地のない何かがあることをどうして知るのか。何らかの神が、あるいは何と呼ぼうとも、これらの思考そのものを私に送り込んでいるのではないか。しかしなぜそう思うのか、私自身がそれらの作者でありうるのかもしれないのに。では少なくとも私自身は何かである。しかし私はすでに感覚も身体ももたないと否定した。では何か。私は身体や感覚にそれほど縛られているので、それらなしには存在できないのか。しかし私は、世界には何もなく、天も地も心も身体もないと思い込んだ。では私も存在しないのか。いや、確かに私は何かを思い込んだのだから存在していた。しかし何者か私には分からない欺く者がいて、絶えず意図的に私を欺いているとしよう。ならば私が欺かれている間も疑いなく私は存在する。どれほど欺こうとも、私が自分を何かと考えている間は、私を無にすることは決してできない。こうしてあらゆることを十分すぎるほど吟味した上で、ついにこの命題を確立しなければならない。「我あり、我存在す」、この命題は私が語るたびに、あるいは心の中で思うたびに、必然的に真である。
しかし今や必然的に存在するこの私とはいったい何者なのか、まだ十分には理解できていない。かつてこうした思考に陥る前に自分を何と信じていたかを改めて省察しよう。以前、私は自分を人間だと思っていた。人間とは何かと言おうとすれば際限のない問いへと滑り込む。むしろ、かつて自分が何であるかを考えるとき、おのずと自然に思考に浮かんでいたものに注目しよう。最初に浮かんだのは、顔、手、腕、四肢をもつこの身体の機構全体を私がもつということで、それを身体という名で示していた。次に浮かんだのは、私が栄養を摂り、歩き、感じ、考えるということで、これらの行為を魂(anima)に帰していた。しかしこの魂が何であるかは気に留めてもいなかった。身体については、何らかの形によって限定され、場所によって囲まれ、空間を満たすのに適したもの、感覚によって知覚されるもの、自らによってではなく触れる他の何かによって動くものと思っていた。自ら動く力、また感じたり考えたりする力が身体の本性に属するとは、まったく思っていなかったのである。
では今はどうか、最高に力強く、あらゆることで意図的に私を欺いてきた悪しき欺く者がいると仮定するとき。身体の本性に属すると言ったこれらのものの中で何か最小のものでももつと断言できるか。魂に帰していたもの、栄養を摂ることや歩くことはどうか。今や身体をもたないのだから、これらも虚構にすぎない。感じることは? これも身体なしには起こらない。考えることは? ここで見つかった。思考、これだけは私から切り離すことができない。
我あり、我存在す、これは確かだ。しかしいつまでか。私が考えている間だけだ。あらゆる思考をやめれば、たちまち存在することを完全にやめることもありうるからだ。今は必然的に真であるものだけを認める。私は正確に言えばただ考えるものにすぎない。すなわち心(mens)、あるいは精神(animus)、あるいは知性(intellectus)、あるいは理性(ratio)。私は真に存在する実在するものだ。しかしいかなるものか。考えるものだと言った。それ以外には。私は人間の身体と呼ばれる四肢をもつこの身体の機構全体ではない。また身体に染み込んだ何か薄いものでもなく、風でも火でも蒸気でもない。それらは無であると仮定したのだから、その仮定を保とう。それでも私は何かである。私が存在することは知っている、この知っている私がいったい何者かを問う。想像力によって形成するものにも依拠しない。想像するとは物体的なものの形あるいは像を観察することにすぎないからだ。心をそれらから厳密に引き離して、心が自らの本性をできる限り判明に知覚するようにしなければならない。
では私は何か。考えるものだ。それは何か。疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志せず、また想像し、感じるものだ。ほぼあらゆることを疑い、しかしながら何かを理解し、この一つのことだけが真だと肯定し、他を否定し、より多くを知りたいと望み、欺かれることを望まず、望まなくても多くのことを想像し、また多くのことを感覚から来るものとして気づく、この私自身がそれではないのか。たとえ私がいつも眠っていようとも、あるいは私を創った者が力の限り私を欺いていようとも、これらのうち私の存在と同様に真であるものが何か一つでもあるか。疑う私、理解する私、意志する私がいるということは、これ以上明証に説明できるほど明らかだ。また想像する私も同一の私だ。さらに感じる私も同一の私だ。今まさに光を見、物音を聞き、熱を感じている。しかしこれらは偽かもしれない、眠っているのだから。しかし眠っていたとしても、確かに見えている、聞こえている、温かく感じている――これが偽であることはありえない。これが厳密に言えば私において感じると呼ばれるものであり、これをそのように正確に取れば思考にほかならない。
それでもなお、物体的なものの方が、この何とも知れない私よりも、はるかに判明に認識されると思えてしまう。そこでよかろう、あらゆるものの中で最も判明に把握されると一般に思われているものを考えてみよう。たとえばこの蜜蝋を取り上げよう。蜂の巣から取り出されたばかりで、蜂蜜の甘さをまだすべて失っておらず、集められた花の香りをわずかに留めている。色、形、大きさは明らかだ。硬く、冷たく、簡単に触れられ、指で叩けば音を出す。しかし見よ、話している間に火に近づけると、甘さの残りは消え、香りは飛び、色は変わり、形はなくなり、大きさは増し、液体になり、熱くなり、もはや音を出さない。同じ蜜蝋がまだ残っているか。残っていると認めなければならない、誰も否定しない。ではそれほど判明に把握されていたものは何であったのか。
確かに感覚で触れたものはいずれでもない。なぜなら味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚のもとに来たものはすべて変わってしまったが、蜜蝋は残っているのだから。蜜蝋自体は、あの蜂蜜の甘さでも花の香りでも、あの白さでも形でも音でもなく、ただ広がりをもつ何か、柔軟で可変なものだ。では柔軟で可変とは何か。蜜蝋が無数の変化を受け入れられることは把握するが、想像によって無数のものを次々と経ることはできない。したがってこの把握は想像の能力によって実現するのではない。広がりについても、溶ける蜜蝋では大きくなり、煮立つとさらに大きくなる。蜜蝋が何であるかを正しく判断するには、私が想像によって把握できる以上に多くの様々な広がりの変化を受け入れると思うべきだ。したがって、この蜜蝋が何であるかを私は想像することができず、ただ心によってのみ知覚すると認めるほかない。蜜蝋を把握するのは視覚でも触覚でも想像でもなく、心の洞察だけであり、以前はそのように見えたとしても、かつてもそうではなかった。
それはただ心の洞察であり、以前のように不完全で混乱したものにも、今のように明確で判明なものにもなりうる。ところで私は自分の心がいかに誤りに傾きやすいかに驚く。蜜蝋が目の前にあれば私たちは蜜蝋そのものを見ると言い、視覚によって蜜蝋を認識すると直ちに結論しがちだ。しかし窓から広場を歩く人々を見たとすれば、帽子と外套の下に自動人形が隠れているかもしれないのに人間だと判断する。こうして目で見ていると思ったものを、私の心の中にある判断の能力のみによって把握する。注意して問おう。蜜蝋が何であるかを私がより判明に知覚したのは、最初に見て感覚によって認識すると信じていたときか、それとも今、より注意深く探究した後か。疑うのは愚かだろう。では、この蜜蝋をこれほど判明に知覚すると思われる私は、自分自身をはるかに真に、はるかに確実に、しかしさらにはるかに判明かつ明証に認識しないであろうか。なぜなら、私がこれを見るから蜜蝋が存在すると判断するなら、私がこれを見るというそのことからはるかに明証に私自身が存在することが導かれるからだ。蜜蝋を認識するのは心であり、心が心自身を認識することはさらに直接的だ。心は身体よりよく知られる。
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第三省察 神について――神が存在すること
今や目を閉じ、耳を塞ぎ、すべての感覚を遮断しよう。物体的なものの像もすべて思考から消し去ろう。そして自分自身にのみ語りかけ、自分自身をより深く見つめることで、徐々に自分をより見知ったより親しいものにしていこう。私は考えるもの、すなわち疑い、肯定し、否定し、少しを理解し、多くを知らず、意志し、意志せず、また想像し感じるものである。感覚と想像と呼ぶそれらの様態が、思考の一形態にすぎないという限りにおいて、私の中にあることは確かである。では、ある事柄について確信するために何が必要かも知っているのか。「我あり、我存在す」というあの最初の認識において含まれるのは、私が肯定するものに対する明確かつ判明な知覚、それだけである。したがって今や、きわめて明確かつ判明に知覚するものはすべて真である、という一般規則を立てることができると思える。
しかし以前は、まったく確実で明証なものとして多くを認めていたが、後にそれらが疑わしいと分かった。地、天、星、そして感覚から汲み取っていた他のすべてのものがそうだ。それらの事物の観念そのもの、すなわち思考が私の心に浮かんでいるということは今でも否定しない。しかし、私の外にそれらの観念が発してきた事物があり、しかもその事物が観念と完全に似ているということ、これが私が誤っていたところであった。では算術や幾何学の事柄、たとえば二と三を合わせれば五になることはどうか。ある神が私に、最も明証に思える事柄についてさえ誤るような本性を与えうるのではないかという考えが、疑いを残す。神の存在と本性を知らない限り、他のいかなる事柄についても決して完全な確信をもてないように思える。
ところで今は、まず私の思考すべてを一定の種類に分類し、そのうちのどれにおいて真偽が本来存在するかを探ろう。思考のいくつかは事物の像のようなもので、観念という名前が本来当てはまる。たとえば人間を、またはキマイラを、天を、天使を、または神を考えるときがそうだ。他の思考はさらに別の形をもつ。意志するとき、恐れるとき、肯定するとき、否定するとき、観念だけでなくさらに別のものを含む。このうちあるものは意志または情動と呼ばれ、あるものは判断と呼ばれる。観念については、観念だけを単独に見て他の何かに関係づけなければ、本来の意味で偽になることはできない。したがって、誤りを犯さないよう注意すべきは判断においてのみだ。判断において見られる最も主要な誤りは、私の中にある観念が私の外に置かれた事物に似ている、あるいは一致していると判断するところにある。
観念のうち、生得的なもの、外来的なもの、私自身が作り出したものがあると思われる。外来的な観念がその事物に似ていると思わせる理由は何か。私は自然にそう教えられてきたように思えるし、外来的な観念が私の意志に依存しないことを経験している。しかし自然の光によって示されるものと、自然の衝動によって信じるよう引き立てられるものとは大きく異なる。外来的な観念が意志に依存しないとしても、それゆえに必然的に私の外に置かれた事物から生じているとはいえない。夢を見るとき外なる事物の助けなしに観念を私の中で形成するように見えてきた。さらにまた、観念がその事物に似ていなければならないという結論にはならない。たとえば太陽について二つの異なる観念が私の中にある。感覚から汲み取られたものは太陽をきわめて小さく見せ、天文学の理由から得られたものは地球より何倍も大きく示す。確かにこの両方が同じ太陽に似ているはずはない。
しかし、私の中に観念がある事物の中で外に存在するものがあるかどうかを探る別の道が思い浮かぶ。観念が思考の様態にすぎない限りにおいては、観念の間に不平等は認めない。しかし、一つの観念は一つの事物を、別の観念は別の事物を表している限りにおいては、観念が互いに大きく異なることは明らかだ。実体を示す観念の方が、様態あるいは偶有性だけを表す観念よりも何か大きなものであり、客観的実在性(観念の中にある実在性)をより多く含んでいる。永遠で無限で全知全能であり、私以外に存在するものすべての創造者である最高の神を理解する観念は、有限な実体を示す観念よりも明らかに客観的実在性をより多く含んでいる。
自然の光によって明らかなのは、作用因かつ全体因の中には少なくとも結果と同じだけのものが存在しなければならないということだ。何かが無から生じることも、より完全なものがより少ないものから生じることもできない。これは客観的実在性のみが考慮される観念についても真である。観念にはその本性から客観的在り方が適し、観念の原因には、少なくとも第一かつ主要な原因には、その本性から形相的実在性(現実に存在する実在性)が適する。したがって、観念の一つの客観的実在性が私自身ではその観念の原因になりえないほど大きいならば、必然的に私だけが世界にいるのではなく、その観念の原因である何か別のものも存在するという結論が導かれる。
私の観念のうち、神の観念について検討すべきは、神の観念の中に私自身からは生じえなかった何かがあるかどうかだ。神という名で私が理解するのは、無限で、独立した、最高度に知性的で最高度に有能な実体であり、私自身および他に何かが存在するならそのすべてを創造した実体だ。有限な私の中に無限な実体の観念がありうるのは、真に無限な実体から生じていないかぎり不可能だ。無限の知覚の方が有限の知覚よりある意味で先に私の中にある、すなわち神の知覚が私自身の知覚より先にある。なぜなら、もし完全な存在者の観念が私の中にないなら、私が疑うこと、すなわち何かが欠けていることを、どのように理解するだろうか。
さらに問いたい。そのような存在者が存在しないとしたら、その観念をもつ私自身が存在しえたかどうかを。私はどこから来たのか。私が自分自身から来たなら、疑うことも望むこともなく、何も欠けることがないだろう。なぜなら、私の中に何らかの観念がある完全性すべてを自分に与えていたはずで、そうすれば私自身が神であるからだ。しかし私は自分を保存する力を何も経験せず、このことから私が自分とは別の何らかの存在に依存していることを最も明証に知る。どのような原因が割り当てられるにせよ、その原因もまた考える能力をもつものであり、私が神に帰するすべての完全性の観念をもつと認めなければならない。そしてその原因について再び同じように問えば、ついには最終の原因に達する。最終の原因が神だ。こうして私が存在するというただそのことと、最も完全な存在者すなわち神の何らかの観念が私の中にあるというそのことから、神が存在することが最も明証に論証される。
神の観念をいかにして神から受け取ったかを、次に検討しなければならない。感覚から神の観念を汲み取ったのではない。私が作り上げたものでもない。神の観念から何も差し引くことも、何も付け加えることも全くできないからだ。したがって残るのは、神の観念が私に生得的であるということだ。神が私を創るにあたって神の観念を私に植え付けた、まるで職人が自らの作品に押した印のように。私の心の視線を私自身に向けるとき、私が不完全で他に依存する存在であることを理解するだけでなく、同時に、私が依存しているあの方が、より大きなものすべてを実際に無限に自らの内にもち、したがって神であると理解する。以上のことからして、神が欺く者でありえないことは十分に明らかだ。自然の光によって、あらゆる欺きと欺瞞は何らかの欠点から来ることが明らかだからだ。
第四省察 真と偽について
これらの日々、私は心を感覚から引き離すことに慣れ親しんできた。物体的な事物について真に知覚できることはごくわずかであるのに対し、人間の心についてはより多くのことが、神についてはさらに多くのことが認識できる。自分が疑うこと、すなわち不完全で依存的な存在であることに目を向けると、独立した完全な存在者、すなわち神の、明確かつ判明な観念が浮かび上がる。このような観念が私のうちにあるという、ただそれだけのことから、神もまた存在し、私の全存在が瞬間ごとに神に依存していると、これほど明白な仕方で結論できる。そして今、まことの神の観想から出発して、その他の事物の認識へと至る道筋が見えてくる。
まず、神が私をいつか欺くことなどありえないと認識する。あらゆる欺きや偽りには何らかの不完全さが含まれるからだ。次に、私のうちに判断する能力があることを経験する。この能力も、私のうちにある他のすべてのものと同様、神から受けたものだ。神は私を欺こうとしないから、この能力を正しく用いる限り、誤ることのないようにこの能力を与えてくださったはずだ。しかしその結論として、私は決して誤りえないという帰結が導かれるように見える。神のことだけを考えている間は、誤りや偽りの原因を何も見出さない。ところが自分自身に立ち返ると、無数の誤りを犯していることを経験する。
誤りの原因を探ると、神すなわちあらゆる完全性を所持する存在者の現実的・積極的な観念だけでなく、いわば無(nihil)すなわちあらゆる完全さから最も遠い存在の、消極的な観念もまた私の前に浮かんでいることに気づく。私は神と無との間に、ちょうど中間に置かれている。至高の存在者によって創られた存在としては、欺かれたり誤りに引き込まれたりするものは私のうちに何もない。しかし、いわば無あるいは非存在にもある意味で与かる存在として、つまり多くのものを欠く存在として、誤りうることは、さほど不思議ではない。誤りは、誤りとして見る限り、神に依存する実在的なものではなく、単なる欠如(defectus)にすぎない。
しかしこれだけでは完全には満足できない。誤りは純粋な否定(negatio)ではなく、剥奪(privatio)だからだ。剥奪とは、私のうちにある意味で備わっているべき認識が欠けていることだ。ではどこから誤りが生じるのか。二つの能力を考える。私のうちにある認識の能力と、選択の能力すなわち意志の自由だ。知性と意志だ。知性だけによっては、私は観念を知覚するだけで、それについて判断を下すことはなく、厳密な意味での誤りはそこには見出されない。意志については、神から十分に広く完全な選択の自由を受けていないと不満をいう理由もない。私はその意志が何ら制限されていないと経験する。意志を除くと、私のうちにある能力はどれも小さく限られており、神においては広大だ。意志だけは、私においてこれほど大きく経験され、それ以上のものを思い描くことができない。意志こそが主として、私が神の似姿(imago)と類似性を宿していると理解する根拠だ。
こうして私は理解する。神から受けた意志の力は、それ自体では私の誤りの原因ではない。知性の力も同様だ。私の誤りはただ一つのことにある。意志が知性よりも広く及ぶゆえに、知性と同じ限界内に意志を留めず、理解しないことがらへも意志を伸ばす。意志はそうしたことがらに対して無差別なので、真と善から容易に外れる。こうして私は誤り、罪を犯す。
何が真か十分に明確かつ判明に知覚できないとき、判断を控えれば、正しく行動しており誤らない。しかし肯定するか否定するかすれば、選択の自由を正しく用いていないことになる。偽の側に向かえば誤り、真の側を選べばたまたま真に出会うが、それでも誤りなくいられるわけではない。自然の光により、知性の知覚は意志の決定に常に先立つべきことが明らかだからだ。この選択の自由の誤った行使の中にこそ、誤りの形相をなす剥奪が宿る。明確かつ判明な知覚のないことがらについて判断する自由を私に与えたことは、神の不完全さではない。しかし、その自由を正しく用いず、十分に理解しないことについて判断を下すことは、確かに私の不完全さだ。明確かつ判明に知覚するものについてのみ判断を下すことを覚えていれば、誤ることは全くありえない。
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第五省察 物質的事物の本質について、および神が存在することについて、ふたたび
外的な事物についての省察に進もう。まず、私が想像する物質的な事物が外に存在するかどうかを検討するのではなく、それらの観念を考察し、その中に何か確実なものがあるかどうかを見極めよう。量、すなわち物体的なものの広がり、その長さ・幅・深さを私は判明に想像する。様々な形をもつ事物の形、様々な形をもつものが互いに占める位置、各部分の運動、その持続時間や場所も判明に想像する。これらを考えるとき、それらを初めて考えるのではなく、以前知っていたものをたんに思い出しているように思える。つまり、以前から私のうちにあったが、まだそこに心の目を向けていなかったことに、初めて気づくようなものだ。これらはたとえ私が今想像しなくても、私の思考の外に本性を有するものであり、虚偽の疑いが最も少ないものだ。たとえば三角形の三角の和は二直角に等しいが、これは私が考え出したのではなく、三角形それ自体の本性として見出されるものだ。
神についても同様に考えよう。神の観念の中に、存在が含まれているかどうかを問う。神とは、あらゆる完全性を所持する存在者として私が理解するものだ。存在は完全性の一つだ。したがって、神の観念の中には存在が含まれる。存在を欠く神を考えることは、谷のない山を考えるのと同様に矛盾している。したがって、神は存在する。ただし、これは私が考えるから神が存在するということではない。神の本性が存在を含んでいるということだ。翼をもつ馬を想像できても実際の馬に翼がないように、神に存在を付け加えて考えても神が存在しないかもしれないと思えるかもしれない。しかし、存在を欠く神、すなわちある完全さを欠くあらゆる完全性を所持する存在者を考えることは、自由ではない。神の本性から存在を切り離すことは、三角形の本性から三角の和が二直角に等しいという性質を切り離すことよりも困難だからである。
さらに、神の存在が確立されることで、私がかつて明確かつ判明に知覚したものはすべて真であるという確信が得られる。かつて証明したことも、それを現在考えていなくても、確実に真であると言えるのは、神が欺かないことに基づく。これが知識の確実性の土台だ。神がいなければ、明証なことを直接見ているとき以外は、何も確実に知ることができない。神の知識があって初めて、記憶に残る過去の明証な認識についても確実性が成り立つ。
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第六省察 物質的事物の存在について、および心と身体の実在的区別について
物質的なものが存在するかどうかを問う。私は物質的なものを明確かつ判明に想像できる。しかし想像することと純粋知性で考えることは異なる。千角形とは何かを知性で理解することはできる。しかし千角形を想像しようとすると、その図形をありありと心に描くことはほとんどできない。これに対して三角形は知性で理解できるだけでなく、容易に想像もできる。この違いは何か。想像するとき、心は身体に向かう何かを使う。つまり心は身体に何らかの仕方で結びついている。身体が存在するならば、想像はこのように成り立つと理解できる。想像を同様に説明する別の方法は思い当たらない。したがって身体が存在すると推測できる。さらに、感覚的観念を受け取る受動的な能力が私のうちにある。この観念を生み出す能動的な能力は私自身のうちにはない。意に反しても観念が生み出されるからだ。したがってこれらの観念は私とは別の何らかの実体から来る。神は欺き手でないので、これらの観念を物体的事物以外から送り込むことはありえない。ゆえに物体的なものは存在する。
心と身体の区別を考える。私は心の本性を、考えるものとして明確かつ判明に理解する。身体の本性を、広がりをもち考えないものとして明確かつ判明に理解する。したがって、心と身体は実在的に区別される。一方は他方なしに存在できる。心は身体なしに存在できる。
しかし、私は身体を持ち、身体に密接に結合している。感覚・感情・欲求、たとえば空腹・渇き・痛みなどは、心と身体の結合から生じる。純粋な知性なら外にある時計のように身体を考察するだろう。しかし私は身体を自分のものとして感じ、それと一体となっている。これらの感覚的観念は私自身の意志によって作り出されているものではない。したがって私とは異なる何らかの原因から来ている。感覚は外のものの本性そのものを教えるためではなく、心に何が有益で何が有害かを知らせるために与えられている。痛みは身体に損傷があることを知らせる。空腹は食物を求めるよう促す。したがって感覚それ自体は欺かない。
では、感覚が時に誤りを生じさせるのはなぜか。心と身体の結合の様式から来る。神経は一つの経路であり、その出発点が異なっていても同じ感覚が生じることがある。水腫の患者が渇きを感じて飲水を欲するのは、神経の誤った伝達による。これは、最も一般的な場合に最も適切に働くよう設計された仕組みの例外的な場合における誤作動だ。
夢と覚醒を区別するにはどうするか。覚醒においては記憶によってすべてが連続的に繋がる。夢においてはそうではない。また感覚は互いに一致する。したがって、感覚・記憶・知性の全体が一致するとき、覚醒していると確信してよい。こうして、以前の大きな疑いはほぼ一掃された。特に物質的なものの存在については、少なくとも幾何学の対象となるものとして存在することが確立された。また、心は身体と実在的に区別され、身体なしに存在できる。そして感覚はその用途において欺かない。個別的な事柄において誤りを犯すことはあるが、それは私たちの本性の弱さによるものであり、神の善性と矛盾するものではない。
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本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『我あり、我存在す』
ラテン語原文は ego sum, ego existo。sum は「ある」を示すコプラ(繋辞)であり、existo は「現に実在する」という実在の事実を示す。デカルトがこの二語を重ねたのは、「私は今まさに現実に存在している」という確実性を強調するためである。この命題は、私が語るたびに、あるいは心の中で思うたびに、必然的に真である、と第二省察において述べられる。
『疑い』
確実な認識の土台を得るために、少しでも疑う余地があるものをすべて偽とみなす操作として用いられる。感覚・身体・外界・数学的真理の順に疑いが及ぶ。悪しき霊の仮定はこの操作の極限として置かれる。
『明確かつ判明な知覚』
明確とは、注意を向けている心に対して直接かつ明白に現れていることとして規定される。判明とは、明確であるだけでなく、他のすべてのものから截然と区別され、明確なものだけを含むこととして規定される。第三省察において、明確かつ判明に知覚するものはすべて真であるという一般規則として立てられる。
『考えるもの』
疑うこと、理解すること、肯定すること、否定すること、意志すること、意志しないこと、想像すること、感じることを含むものとして語られる。第二省察において、身体・感覚・想像を退けた後に残るものとして示される。「我あり、我存在す」という命題の「我」が何であるかへの答えとして導かれる。
『観念』
事物の像のようなものとして語られる。思考の様態として見れば偽になることはできない。しかし観念が私の外に置かれた事物に似ているあるいは一致していると判断するとき、誤りが生じる。観念には客観的実在性があり、より完全なものの観念はより多くの客観的実在性を含む。
『神』
無限で、独立した、最高度に知性的で最高度に有能な実体であり、私自身および存在するものすべてを創造した実体として語られる。第三省察において、有限な私の中に無限な実体の観念がありうるのは真に無限な実体から生じていないかぎり不可能であるとして、神の存在が導かれる。第五省察において、あらゆる完全性を所持する存在者として、存在が本性に含まれるとして再び存在が示される。神は欺かないとされる。
『誤り』
判断において生じるものとして語られる。第四省察において、認識する能力と意志との関係から生じるとされる。意志は知性より広く及び、明確かつ判明に知覚されていないものについて判断を下すときに誤りが生じる。観念だけを持つ限りでは誤りは生じない。誤りは神に依存する実在的なものではなく、単なる欠如にすぎない。
『心』
考えるものとして規定される。第二省察において、身体・感覚・想像を退けた後に残るものとして示される。第六省察において、広がりをもち考えない身体と実在的に区別されるとされる。心は身体なしに存在できるとされる。
『感覚』
心と身体の結合から生じるものとして語られる。第六省察において、外のものの本性を教えるためではなく、心に何が有益で何が有害かを知らせるために与えられたとされる。感覚それ自体は欺かないとされるが、心と身体の結合の様式から、例外的な場合に誤った感覚が生じることがある。
第Ⅱ部 物の定義について
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
デカルトにおいて、物の定義は論の到達点として置かれているわけではない。省察は、確実な認識の土台を求めて疑いを進め、心の存在を確立し、神の存在を証明し、心と身体の実在的区別を示すという運動の構造を持つ。物がどのようなものかという問いは、この運動の末に、物質的なものの本性として扱われるにとどまる。以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
感覚はこれまで何度か私を欺いてきた。感覚によって与えられる外界のものは信頼できない。夢の中でも同じ経験をすることがある。悪しき霊が幻を与えているかもしれない。物はまずその存在自体が疑わしい。
しかし私は問う。物とは何か。手の中の蜜蝋を火に近づける。形が変わり、香りが消え、色が変わり、溶けて流れる。感覚に現れたものはすべて変わった。しかし蜜蝋は同じものとして残る。残るものは何か。空間を占め、大きさと形をもち、動きうるという性質のみである。これが『広がり』である。この残るものは感覚では分からない。想像もできない。私の心のみが知ることができる。物の本性は広がりである。
しかしこの時点では、広がりを持つものが実際に存在するかどうかは分からない。物の本性が明確かつ判明に認識されたとしても、物の存在は別の問題である。
私が想像するとき、心は身体に向かう何かを使う。千角形を知性では理解できるが、想像することはほとんどできない。三角形は容易に想像できる。この違いから、私の心は身体に何らかの仕方で結びついていると分かる。物質的なものが存在しないなら、この能力は無駄になる。神は無駄なものを作らない。物質的なものは存在する。物質的なものの本性の根底にあるのは広がりである。形も運動も、広がりを持つものの様態にすぎない。これらは私が作り出したのではなく、それ自体として見出される。神が欺かないという事実が、この明確かつ判明な認識の真理性を保証する。
心は考えるものとして明確かつ判明に把握される。物体は空間を占め広がりをもつが考えない。両者は異なる本性を持つ。心は物体なしに存在できる。物体は心なしに存在できる。これが『実体』としての物体であり、心とは実在的に区別される。感覚は物体の存在を知らせるが、物体が何であるかを把握するのは心だけである。
『物とは、広がりを本性とし、心なしに存在できる実体であり、感覚によってその存在を知り、心によってその本性を把握するものである。』